先週のメッセージからの一言

2020年12月27日

私の歩いた道に共におられた神
創世記 35章1〜3節

この一年、自分の人生の計画を狂わされたと思っている人は多い。
しかし、この一年を完成する方はキリストです。
パウロは自分の人生の目標を完成するために『脱獄』する必要はありませんでした。
獄中から多くの愛の手紙を書き、クリスチャンたちはかえって大変励まされました。
宣教も前進しました。イエスの地上の生涯の『完了』は十字架の上、激しい苦しみでした。
しかし、彼は『満足した』と預言者は言いました。
人々が期待していた『王座』ではありませんでした。
私たちの期待と神の計画の間にはギャップがあり、そこに神は働いています。
最後は、神が栄光を受け取られるのです。私たちではありません。


2020年12月13日

マリヤの不安と信仰
ルカの福音書 1章26〜38節

新しい命との出会いには、いつも驚きがある。
また、神の言葉の説明が無ければ、人生は時として大変不可解に見える。
マリヤの妊娠は、不可解であり驚きの極みであったが、
神の言葉の説明によって、その不安は次々と大きな期待に変わっていった。
妊娠とは「命」を神のみ心として、そのまま受け入れることです。
それが成長し完成した時の姿が自分に気に入るかどうか、
自分の願いどうりであるかどうかに関係なく生まれてくる。
それは、愛そのものであり、愛とはそのようなものです。
実に教会も全く同じように成長していきます。
マリヤは「私は主のはしためです」と言い、すべてを受け入れました。
マリヤに神は愛について初めに教えておきたかったのです。


2020年11月22日

キリストこそ私たちの平和
エペソ人への手紙 2章11〜15節

『私の平安』が隣人、家族、教会の『平和』を形成しているだろうか。
『 独善的な平和』は、隣人への無関心です。
神の平安は隔ての壁を越えて、平和を実現します。
神の平安は自分の壁を取り除くために与えられます。
世の平安は、そのようではありません。
自分は成長しているかも知れないが、隣人との平和を形成しないのは、愛の成長に問題があるからです。
『ひとりよがり』の平安は、『立ち去って下さい』と言います。
神の平安は苦しみの中にあっても『愛の品性と希望』を生み出します。


2020年11月8日

自分自身の問題と祝福
エペソ人への手紙 2章8〜10節

『息継ぎ』に失敗すると、どんな選手でもおぼれる。
筋肉とか気合いの問題ではない。
神の愛と命を息継ぎする時には、決してあわててはいけない。
あわてたり、誰かにしがみつくなら、やはり溺れてしまいます。
あの女は、イエスから嫌な質問をされても話しを中断してイエスから離れていくようなことはしませんでした。
イエスに出会ってから自分のこだわりはだんだん消えていきました。
イエスさえ、早朝、山に行き父との交わりにたくさんの時間を使いました。
無意識の呼吸のように父を知ることは信仰生活の秘訣と言えます。


2020年11月1日

神の賜物によって生きる
エペソ人への手紙 2章8節

彼女には八つもの『自分のこだわり』があり、それが彼女を孤立させていた。
イエスは愛を持ってその一つ一つのこだわりから来る『壁』を越えて近づいていった。
イエスの心は水のように自由だった。
一方、あの役人はこだわりを捨ててイエスの言葉を信じて帰った。
信仰は自分自身へのこだわりとの反対側にある。
この役人は自分の息子のいやしという素晴らしい神の賜物を受け取りました。


2020年10月18日

その大きな愛のゆえに
エペソ人への手紙 2章1〜4節

罪とは、愛に対する違反と言えます。
神は大きな愛を持って罪と言うものを教えました。
そのように、もし傷つけられた相手に愛を教えようとするなら、
その人を愛してから愛を教える必要があります。
愛とは言葉ではなく、行動だからです。


2020年9月20日

旅路を支える聖霊の喜び
エペソ人への手紙 1章14節

その方は、人の涙をぬぐうことが出来るくらい近くにいつもおられます。
その方は、いつも傍らにいて
『あなたが歩く時、あなたを導き、あなたが寝る時、あなたを見守り、
あなたが目覚める時、あなたに話しかける』。
幼子が朝目覚めて母の顔を探すように。
朝、職場や学校に出かける時、確認すべきものは財布よりも『この方』です。
自分の財布が役に立たない時があります。
イエスは『もう一人の助け主』を送りますと約束しました。
毎朝、まずこの方をみつけてから出かけましょう。


2020年9月13日

約束の聖霊
エペソ人への手紙 1章13節

神は私たちとの約束を決して忘れない。
あの献酌官長は、自分が幸せになった時、恩人ヨセフとの約束を忘れてしまいました。
そのため、ヨセフはそれから更に2年もの間、監獄にいなければなりませんでした。
誰でも自分が幸せになると、昔の約束を忘れてしまうものです。
また、自分の力だけでやってきたと勘違いしています。
私たちはみな、互いにお世話になってここまでやってきました。
今度は私のほうが兄姉のために、心から仕え捧げる『番』なのではないでしょうか。


2020年9月6日

神をほめたたえる理由
エペソ人への手紙 1章11〜12節

愛の神は『愛に満ちあふれる者』にしようと『最も愛されなかった女』を選ばれた。
愛する者から徹底的に拒絶されたレアが気付いた『生きる理由』は何だったのだろうか。
認められることを求め、愛されることを求めて生きる日々はレアにとって失望の毎日であった。
しかし、三度の妊娠の後、三人の自分の子どもを育て、その成長の恵みを見て、
レア自身が自分の子どもを愛おしく見るように、レアを見ている神の愛の眼差しにやっと気付いた。
愛されることを求めるよりも、愛することのほうがはるかに素晴らしいと。
レアはやっと気付いたのです。そして、彼女は言いました。『今度は主をほめたたえよう』と。
最も愛されなかった者が、最も愛に満ちあふれる者になるとは何と神の恵みの素晴らしさ、奇しさであろうか。


2020年8月30日

私たちは一つに集められる
エペソ人への手紙 1章7〜10節

私の『時(カイロス)』を知った者は、教会の一致と宣教という神の偉大な計画に自分を献身します。
その人は、自分がその為に『生と命』を与えられ、今のところに置かれていることを理解したのです。
たとい獄中であっても、神の救いの計画に参加しているのです。
主に従う者にとっては無意味は一つもないのです。
たとい王が『金の笏』を差し伸ばさなくとも。
だから、『あらゆる知恵と思慮深さ』をもって、自分の周囲に起ってくる出来事を観察する必要があります。
『なぜこの人と結婚したのか』『なぜこの会社、この上司、この仕事なのか』。
意味のないものは一つもありません。
もし、主に信頼して従っているなら、ちょうど良い時に、
神様の時に、神からの『金の笏』があなたに差し伸ばされることでしょう。


2020年8月9日

恵みと平安があるように
エペソ人への手紙 1章2節

略奪され捕らえられてきた娘は、憎しみよりも神の栄光を選び取りました。
一方、プライドの高いナアマン将軍は、
預言者エリシャのぞんざいな扱いに腹を立て、神の栄光を受け取り損ないました。
手ぶらで帰途に着きました。礼拝に来てもプライドの高い人は手ぶらで帰るしかありません。
賢いしもべたちが、神の恵みについて語る時、耳を傾けるなら祝福を受け取ります。
恵みの敵は『人のすべての考え』です。自分の知恵で平安を得ようとする人間の努力です。
だから、結局思い煩いが心の中から湧いてきます。一方、感謝は信仰を働かせるモーターです。
ナアマンはすぐに腹を立て不機嫌になる人の代表。
略奪された娘は憎しみと敵意の中で、感謝を選び取った人の代表。ナアマンは全てを失いかけました。
全てを失っても神の光を選び取った娘の上には、ますます義の光が輝きました。


2020年8月2日

忠実な者は人をいやす
エペソ人への手紙 1章2節

忠実な使者はなぜ人をいやすのか。
それは仕えている人の弱さを理解しているからです。
忠実な大祭司イエスは私たちの弱さをよく理解しました。
忠実は、能力・知識の有る無しに関係ありません。
能力・知識のある人はしばしば、善悪を知る木の実を求めます。
悪魔は人間のこの欲を利用して成功しました。
しかし、忠実は『純真』という上からの知恵です。
良い旅館の使用人は旅人の弱さをよく知っています。
そのもてなしは疲れた旅人を理解することから始まります。
私たちの教会も家庭もこのように人をいやす宿屋となりたいと願っています。


2020年7月26日

キリスト・イエスの使徒パウロ
エペソ人への手紙 1章1節

本当に新しいことはいつもキリストの十字架の無条件の愛から始まる。
失敗に落ち込む朝も劣等感に悩むときも、
それはキリストの十字架のみ業に引き戻すための私のしもべに過ぎない。
キリストに出会った人々の誰が貧しくなかった人があったろうか。
私たちは賢いと思っているので、キリストとの新しい出会いがないのではないか。
真に新しいことは、キリストの十字架の無条件の愛から始まる。
婦人病の女性も姦淫の罪の女性も全く新しくされて帰って行った。
ただ自信ありげな金持ちの青年だけが手ぶらで帰った。
自分を肯定的にありのままの自分を受け入れるとか、
自分を好きになるようにとか言われるが根拠はなにか?
この世界は成功体験を追究する。
しかし、本当のスタートは自分の成功体験ではない。
キリストの十字架の無条件の愛が、人間に最後に残されたスタートのチャンスであり、
私たちの帰るべきところなのです。


2020年7月19日

神の愛と聖霊の交わり
コリント人への手紙第二13章13節 後半

『庭園』は素晴らしいものだが、
天の恵みがなければその美しさを保つことはできない。
人間の愛も神の愛の助けなしには、そのままでいることさえできない。
神の愛は聖霊によって私たちに注がれています。
冷淡は神のご性質では決してない。
孤立と冷淡さからは良いものは何も生まれない。
交わりの欠けたところには、自分かってな欲が隠れている。
しかし、聖霊の交わりは自分が愛されていることを確信させ、貧しい者を充足させる。
パウロは非難中傷する人々に対しても決して冷淡にはならなかった。
いつも父の愛によって養われ支えられていた。
誰でも神を愛する愛に比例して、人を愛することができるのです。


2020年7月12日

十字架の業の上に歩む
コリント人への手紙第二13章13節 前半

問題の多いコリントの教会の人々が、それでも日々の生活の中で、
神の祝福を体験できるようにとのパウロの願いがあふれている。
これこそ、福音的な生き方であり、リアル教会生活です。
十字架の業の上を歩むのです。
キリストにある者は、決して罪に定められることはありません。
苦しい状況や失敗、罪にさえいつまでも落ち込んでいない。
真実な悔い改めは、その人を更にキリストに熱心にさせることでしょう。
そしてキリストの命はあなたの内側で、自分の築き上げたその壁を越えて行くでしょう。


2020年7月5日

マケドニアからの積極的な愛
コリント人への手紙第二13章12節

心からのあいさつができる人は愛されます。
ほとんどのあいさつは形式的だからです。
心からのあいさつは、あいさつを受けた人に衝撃を与えます。
心からのあいさつは、互いの間の壁を打ち破る愛です。
それは、福音の力であり、福音的な生き方の実際です。
孤立主義は福音ではありません。その衝撃はキリストの宣教において最大のものになりました。
キリストは罪の壁を越えてやって来た神からの愛のメッセージです。
ある人々はその衝撃の故にキリストを拒絶しました。
しかし、キリストは神から熱情的なあいさつ、愛の結合への招きです。
その結合は御霊が注がれることにより、現実となりました。
私たちの御霊の一致は、『聖なる口づけ』よりも遥かに優れているのです。


2020年6月21日

本来の私に戻るpart2
コリント人への手紙第二13章11節前半

その時、兄は不機嫌になり、弟は悔い改めた。
主はその二人を愛した。本来の私を見出すのは、神の愛を知った時です。
誰もが、本来の私を求めて旅に出ている。
しかし、私たちの造り主である方を知ることがなければ、その旅は終わらない。
この二人の息子たちは早めに人生の失敗をして、旅を終えることができて幸せだった。
旅が目的ではないからだ。そこはまだ自動車教習所内の狭いコースの旅に過ぎない。
自分の可能性を試すのはそこからです。これからが本物の冒険だからです。
愛の神は一緒に行かれます。あなたを支え、あなたを導きます。
それから、益々私はどんなに愛されているのかがわかるでしょう。


2020年6月14日

本来の私に戻るpart1
コリント人への手紙第二13章11節前半

愛することを学ばないクリスチャンは、信仰を持ってはいても虚しさに悩まされ不機嫌です。
その人の成長のしるしは、熱心な奉仕では全くない。
成長のしるしは親切と善意などの愛の現実の行いです。
忙しい時にイライラするのは当たり前です。
が、動物的であり教えを無視した行為です。
不機嫌で未熟なクリスチャンほど証しにならないものはありません。
コリントの教会はそのためにいまだに有名です。
悪魔はあなたの信仰を取り去りはしません。
信仰を持っていながら、不機嫌で自分中心なクリスチャンを効果的に利用するのです。
あなたはその策略に引っ掛かってはいませんか。
へりくだって愛を学ぼうとしないクリスチャンはこのように有害なのです。


2020年5月31日

嵐の中でも倒れない家
コリント人への手紙第二13章8節

『真理に逆らう』とは『的はずれ』な生き方のこと。
的はずれな努力や、ヤマ勘的な生き方のこと。
人生は賭け事ではありません。
ある意味では、この世界すべて、自然法則という真理に従って動いています。
だから、自然法則を無視して建設された建物には、安くても誰も住みたいとは思いません。
天地創造の神はこの世界を法則に従って創造されました。
私たちの人生にも真理という法則が働いています。
真理に逆らった人生は危ういのです。
的はずれな目標を目指して全世界を手に入れても、まことの命を損じたら何の得がありましょうか。
と、イエスは問うています。
今からでも方向転換して歩むなら、神はすべてを新しく造り変えてくださいます。


2020年5月24日

イエスが見るように見る
コリント人への手紙第二13章5〜7節

試練や苦しみのような自分の弱さに直面する時には、
キリストが私の心の中にいる、と特によく感じる。
苦しみの中で、神の愛が私を支えている、と分かる。
自分が元気な時にはしばしば、心の中のキリストに扉を開かないでいる。
しかし、私たちはキリストと共に生きているのです。
キリストの目が、私や私の周りに起こっている物事をどう見ているかに焦点を合わせましょう。
周りの人が私をどう見ているかに焦点を合わせると自分を見失います。
キリストが見るように、私も見るように。
キリストが考えるように、私も考えるように。それが信仰です。


2020年5月17日

愛には恐れがない
コリント人への手紙第二13章3〜4節

神の愛と力によって立つ者は、人の顔を恐れることなく、
むしろ、愛によって輝きながら立っている。
預言者エゼキエルに対して神は『あなたの額を金剛石のようにする』と、
神の言葉を聞こうとしない人々の前で彼を励ましている。
金剛石とは、『ダイヤモンド』のことです。最も硬く、最も輝く石。
そのように、神の言葉に立つ者は、人々の中傷や敵意に対しても恐れを持つことがない。
それ以上に、彼は傷つくことがないばかりか、彼らの前で輝くのです。
本当に全き愛は恐れを締め出すのです。


2020年5月10日

健康のための耳の痛いお話
コリント人への手紙第二13章1〜2節

大目に見るにも『限度』があります。パウロの二度の勧告は無視されました。
このまま『直進』すれば谷底に落ちてしまいます。
『方向転換』させるためには強い指示が必要でした。
『あいまい』で『先伸ばし』する『ごまかし』はその人のためにはなりません。
イエスは愛のゆえにしばしばその人の罪を明らかにされます。
その女がごまかそうとした時、イエスは女の秘密、隠し事を明らかにされました。
キリストの大きな『手術』でしたが、女はキリストを信じて町に戻りました。
危うい所で女は救われました。キリストはそのような罪人のために来たのです。
イエスはいつも私たちの側にいるのです。


2020年5月3日

イエスに出会ってみると
コリント人への手紙第二12章20〜21節

パウロが真に恐れているのは、悔い改めを頑固に拒絶して失われてしまうことなのです。
人の心の中には、常に神に反抗する思いがあるからです。
そして、『私は間違っていないはずだ』と考える高慢さです。
タイタニック号は6回もの警告を無視したため、悲劇的な最後を迎えたことは大変有名です。
真に恐ろしい問題は、欠点があることではなく、
示された時に頑固に悔い改めを拒絶する人間の高慢さです。
示された時に、それを取り除こうとしなかったことなのです。
神は恐ろしい方ではありません。
本当に恐ろしいのは、人間の高ぶり、自分を正当化しようとする罪なのです。
もし、私たちが悔い改めて神に立ち返るなら、神は赦して下さり、
再び私たちを『娘よ』と呼んで大きな愛と憐れみをもって愛してくださいます。


2020年4月26日

『とりで』となる教会の交わりと家族
コリント人への手紙第二12章19節

『築き上げる(19節)』は、特に「とりで」や「お城」を建築する場合に使われる言葉です。
家族も私たちの人生も本当にたくさんの攻撃と試練を通ります。
イエスの愛によって築き上げられた教会と家族はまことに『堅固な要塞』のようであり、
その中に住む者を守ることができます。
イエスはこう招いています。『わたしの愛の中にとどまりなさい』と。
一方、人の心は変わり易いので、それに繋がる人は極めて不安定になります。
しかし、教会の兄姉と共にイエスキリストを見上げるとき、
その人は堅固なとりでの中にいるのです。三つ撚りの糸は簡単には切れません。


2020年4月19日

愛が試されるとき
コリント人への手紙第二12章16〜18節

その問題の解決は、問題に焦点を合わせるのではなく、
その人をどのように愛するかに焦点を合わせることが大切です。
コリント人への手紙の全体の流れは、「その問題は愛する機会」だと教えています。
親しい仲間や友人、家族の問題は、間違いなく、それ自体「愛する機会」です。
一方、偏見や思い込みは、愛する機会を奪います。
あの祭司とレビ人は偏見と思い込みによって、
強盗に襲われた旅人を愛する機会を失いました。
しかし、嫌われていたサマリヤ人だけは、
偏見と思い込みに捕らわれずにその旅人を助けることが出来ました。
パウロも自分が受けた中傷や敵意には反応しませんでした。
それは愛する機会を奪うからです。私たちも行って同じようにしましょう。


2020年4月12日

愛すれば愛するほど
コリント人への手紙第二12章14〜15節

真実の愛は、しばしば理解されない。
イエスが十字架の身代わりの死を弟子たちに告げた時、多くの弟子たちは信じなかった。
ただの群衆は黙って去った。また、ユダに対するイエスの最後の招きも拒絶された。
一方、悪い者の愛は、結構分かり安い。人はみな孤独なのでそのようなものに近づいていく。
愛されることを求めて生きるなら、罠はたくさんあります。
愛することを求めるだけなら、自分が枯渇していることを見出だします。
愛は神から来るのです。心の泉はここから湧き出します。
豊かに。隣の水は甘くはありません。


2020年4月5日

神の愚かさを着る
コリント人への手紙第二12章11〜13節

神の愚かさは、人を救い、人間の様々な問題を解決することができます。
パウロは「私は愚か者になりました」と言いました。
あなたは信仰のために、これまで何回「愚か者」として扱われましたか。
何度、「正しく裁かれる方」にお任せになりましたか。
それこそ、神の前での人生の真価なのです。
しばしば知性の衣を着るよりも、神の愚かさの衣を着る方が賢いのです。
自分の正しさを求めるのではなく、神の義を求めよと言われています。
十字架に見る愚かさは、神の知恵でした。


2020年3月29日

私の恵みは、あなたに十分である
コリント人への手紙第二12章6〜10節

「この苦しみはどこに向かっているのか」それを知っていれば、苦しみを耐えることが出来る。
「主の恵みはあなたに十分である」の意味は、「主の恵みはあなたを担い運ぶ」である。
苦しみは単に耐えるだけのものではなく、「生み出す」ための、「産みの苦しみ」なのです。
それは、「悲しみと憂い」の真っ只中にも「喜び」が生まれると言っているのです。
御霊は私たちの心の中で、弱い「私」を担い運び、すべてが益となるポイントへと導いているのです。
「十分」のもう一つの意味は「満ち足りて充実している」です。
苦しみをただがまんするのではなく、その真っ只中で不思議に満ち足りて充実することができます。
それは、苦難の真っ只中でも、主の愛の「おおい」に満ち足りて充実しているからなのです。


2020年3月22日

神からの励ましのメッセージ
コリント人への手紙第二12章1〜5節

多くの人は自分の「本当の姿」を知らない。ベールでおおわれているのです。
しかし、イエスに出会うなら、その「おおい」は取り去られます。
あなたは、そのような自分の本当の姿を知っていますか。
あの放蕩息子もメフィボシェテも自分が「ゴミ」同然に見えていたとき、
息子は父の所に、メフィボシェテはダビデ王の所に帰った。
その時、彼らの心のおおいは取り去られた。
そして、父の食卓、王の食卓についた。あなたは、神の目には、高価で尊いのです。


2020年3月15日

苦難のあふれるところに、神の慰めもあふれる
コリント人への手紙第二11章16〜33節

「誰も私を愚かと言ってはなりません」何故なら、
神の愛はしばしば愚かに見えるからです。
あの放蕩息子のお父さんも、息子の酷いだらしなさを知りながらも、自分の大切な財産を分けてやった。
失敗するのは火を見るより明らかであったにも関わらず「愚か」にも財産を分けてやった。
案の定、息子は全部失ってぼろぼろになって帰って来たのです。
父は息子の失敗をも含めて信じていたのです。多くの人の愛は賢すぎます。
しばしば計算です。パウロはこのように問題の多いコリントの教会を愛しました。
これは、キリストの十字架にも見ることのできる愛の姿です。
愛はしばしば愚かに見えるのです。このような「神の愚かさ」の衣を着て、
パウロは霊の子どもたちに教えています。それは、「神の愚かさは、人の賢さよりも賢い」からです。


2020年3月8日

光の御使い
コリント人への手紙第二11章13〜15節

「良いもの」と「悪いもの」とを見分けるようになることは、
神が強く私たちに願っていることであり、沢山のみことばがその事を教えています。
しかし、キリストの花嫁は何とその「純真さ」を失い安いのでしょうか。
一方、キリストはうわべを装おう必要はありませんでした。
「私たちが慕うような見映えもない」姿だったが、
彼は真実の愛をお持ちであり、決して私たちから顔を背けませんでした。
反対に、立派に装おうとする者には、いつも警戒が必要です。
サタンはしばしば光のみ使いに変装するからです。
そして、キリストから目を反らそうとしているのです。
「わが子よ。あなたの心を私に向けよ」と主は今も語っています。


2020年3月1日

私には愛がないのでしょうか
コリント人への手紙第二11章7〜12節

「私には愛がないのでしょうか」とパウロは尋ねた。
どうしてそんなに神の愛は分かりにくいのでしょうか。
それは、人間の目には「愚か」に見えるからです。
キリストの貧しさよりも、うわべのかっこよさを追い求める人々にとっては、
パウロより偽教師たちのほうがずっと分かりやすかった。
人々は尋ねました。「パウロさん。あなたには何も誇ることのできるものはないのですか」
としつこく求める者たちに、
「どうしてもあなたがたがそれを求めるなら、私は自分の弱さを誇りましょう」と答えています。
それは、たくさんの苦難を体験してその時こそ神の恵みの時であることを知っていたからです。
まさに、「苦難のあふれるところにあわれみもあふれる」
「弱さのあふれるところに、主の恵みもあふれる」からです。


2020年2月23日

キリストに対する真実な生き方
コリント人への手紙第二11章1〜6節

サタンの攻撃は、クリスチャンの「純真さ」に向けられる。
キリストに対して一心に向けられた花嫁の純真さを悪魔はねたんでいるからです。
しかし、悪魔はキリストから花嫁を欺いて横取りし、奪い取ってから、そして、捨てる。
悪魔の目標は「すべての人の滅び」なのです。悪魔は「わな」を仕掛けて攻撃します。
境界線をあいまいにして誘いだし、「ここまでは大丈夫」と周辺をうろうろさせます。
それから、「このくらいは大丈夫」と、まず少しの違反に誘います。
悪魔の悪意はうまく隠されている。
パウロは、「私の愚かさを耐えて下さい」とお願いしている。
「純真さ」はしばしば愚かに見えるからです。
一方、悪魔は「善悪を知る木の実」を見せてエバを誘っている。
愚かな人は愚かと思われることに耐えられないのです。


2020年2月16日

主の割り当ての地に生きる
コリント人への手紙第二10章13〜18節

「野のユリを見なさい」野のユリは自分に割り当てられたわずかな場所で、美しい花を咲かせている。
明日は炉に投げ込まれるこの小さな花でさえも、
絢爛豪華なソロモンの栄華よりも咲き誇っているとキリストは教えた。
「自分らしさ」は、周囲との比較からは決して分からない。
自分に割り当てられなかったものを見て、がっかりしたりねたんだりする必要はない。
人間には正しい誇りが必要ですが、それは比較からは来ません。
割り当て地を与えられた主から来るのです。
「あの人のようになりたい」というよりも、
自分に割り当てられたところの素晴しさを知って「自分らしさ」に気付く人は「野のユリ」です。
人は誰も気付かないかも知れないけど、主が見て下さっているのです。


2020年2月9日

うわべのことだけを見る人たち
コリント人への手紙第二10章7〜12節

「うわべ」のことだけを見る人は知恵がない。
その人は、自分にも家族の中にも問題を引き起こす。
人々の間で、自分を量ったり、比べたりすることも知恵がないと聖書は言っている。
それらは、やがて「ねたみ」となり、分裂や争いの原因となる。
神の愛から離れた者は、他人を羨んで自らを傷つける。
比較の世界には、一人も勝利者はいないのです。
むしろ、神の目に映る自分を「本当の私」として喜んで受け入れることが知恵なのです。


2020年2月2日

罪の要塞を打ち破る
コリント人への手紙第二10章1〜6節

「ねたみ」は、多くの敵対と分裂の真の原因です。
しかし、自分の「ねたみ」を取り扱うことは、
「大人の仕事」で堅い食物なので、多くの人々はそれを隠し持ってしまいます。
「ねたみ」は、非常に重く苦い「負の感情」なので自分や周りの人々を傷付けます。
「ねたみ」は、「肉の思い」であくまで神に反抗するものです。
「ねたみ」は、愛することにおいて取り扱う必要があります。
「愛は人をねたまず」とあるように「愛することを学ぶ」のです。
しかし、「ねたみ」は相手を引き下ろそうとし、出来れば居なくなれば良いと思っています。
一方、「良いライバル」は、兄弟愛と友情という愛で結ばれ、
共に共通の目標に向かって励まし合い、互いの間には、深い尊敬があります。
「愛は神から来る」のですからイエスを熱心に求めましょう。


2020年1月26日

神の愛からあふれ出る隣人愛
コリント人への手紙第二9章13〜15節

かつて、敵対しあっていた人々でも、
相手の心の中に与えられた絶大な神の恵みを見て愛するようになる。
私たちは相手の何を見て愛するようになるのだろうか。
何が分かっているのだろうか。
その人の「うわべ」ではなく、「中身」がはっきり分かるのは、礼拝や祈りの最中である。
「やみ」を愛する人は、礼拝や祈りの最中に落ち着きがない。
「光」を愛する人は、益々生き生きして、輝いてくる。
その「愛」と言われるものは、聖霊の働く環境になじむだろうか。
礼拝の中に満ちている神の愛になじむだろうか。
礼拝や祈りの中で育てられない愛は、神からのものではありません。
一方、神の愛には恋愛、友情、夫婦、家族愛を育てる命があります。
そればかりでなく、傷付いた愛をいやす力があります。
人間の愛は傷付きやすいので、いつも神の愛の中で育てられる必要があるのです。


2020年1月19日

いのちを豊かに持つ
コリント人への手紙第二9章9〜12節

本当の豊かさには二つの特徴がある。
一つは、「豊かに与える」ことです。
二つめは、「神への感謝」がその人の周りの人々からわきあがっていることです。
蒔くべき種を食べてしまう農民はいません。
蒔いた種だけが残るからです。
この明らかな自然法則は、神の恵みの法則を賢く説教しています。
キリストの貧しさに預かる者だけが、本当の豊かさをつかむことができるのです。


2020年1月12日

あふれる者とするために
コリント人への手紙第二9章6〜8節

神は喜んで与える人を愛して下さいます。
それは、喜んで与える人の愛は真実なものであることが明らかになったからです。
ザアカイが自分の財産を貧しい人や騙し取った人々にすべて与えてしまったのは、
イエスの愛を知ったからでした。
豊かに捧げる心は、イエスご自身を喜ぶ心から生まれました。
ザアカイはやがて伝道者となり殉教したといわれている。
キリストに対する彼の愛は多くの実を結び、
日本のクリスチャンたちは今もその実を食べているのです。


2020年1月5日

あなたの心を私に向けよ
箴言23章26節

試練はしばしば主から語られた「わが愛する子」という言葉を疑わせる。
誰でも苦難の中にある者は、この言葉にすぐに戻ると良い。
悪魔もこの言葉を疑わせて愛された子を神から引き離そうとしている。
激しい空腹時には「神は私の苦しみに無関心?」と疑わせ、
屋根から身を投げて主の愛を試したくなるかも知れません。
「私は本当に愛されているのだろうか?」という質問は大切な質問だけれども、
十字架の証しは私たちにとって十分なはずである。
隣人の愛を試そうとしてもいけません。
真実の愛は愛されることを要求するのではなく、
主の愛に満たされあふれて、自分から愛することの中にあるからです。


2019年分