? 先週のメッセージからの一言

先週のメッセージからの一言

2019年12月29日

大胆に聖所に入ろうではないか
へブル人への手紙10章19〜20節

罪意識はその人を清くしたり賢くしたり、立派な人に成長させることは決して出来ない。
罪の意識は、キリストを知るまでは、羅針盤のない客船のように、進むべき方向も港も知らない。
律法は罪の意識を生み出し、罪意識から生けにえを携えて神殿に向かわせる。
しかし、今、私たちの礼拝へは、自分の罪意識が導くのではありません。
キリストがご自身のからだで永遠の生けにえを捧げられ、罪のあがないは完了しています。
今や私たちは罪の意識から礼拝に向かう必要はありません。
罪の意識によって引き起こされる「ためらい」は無用です。
キリストのあがないは完了しているので、大胆に神の前に出ることができるのです。


2019年12月22日

この出来事を見て来よう
ルカの福音書2章8〜20節

羊飼いたちは、何も贈り物を持ってはいませんでした。
しかし、一番大切なものを持っていました。それは、みことばに聞き従う心でした。
そして、あの学者や祭司たちが全く持っていなかったもの、
信仰から来る勇気と積極的な行動によって立ち上がりました。
また、あの宿屋の主人が持っていなかったもの、
仕事中でも機転と知恵を働かせてキリストに会いに出かけました。
彼らは社会の最下層の人々で何の学問もなかったのに、どうしてこんなにも知恵にあふれ、
こんな大きな特権に預かることが出来たのだろうか。
み使いからの神の言葉を聞いたとき、彼らは、自分たちの境遇に閉じ込められることを自分に許しませんでした。
自己憐憫と憂鬱に沈むことを自分に許しませんでした。
あの夜、彼らの周りを閉ざしていた闇を打ち砕いて光が輝いたように、
自分の境遇という闇を打ち砕いて立ち上がってキリストのいるところに走って行ったのです。
そうです。光が輝くと世界は広がるのです。


2019年12月15日

別の道を通って帰った人々
マタイの福音書2章1〜12節

ある人々はキリストが目の前に居たにも関わらず、キリストを見出だすことが出来なかった。
ヘロデは憎しみと敵意に身を任せ、学者、祭司らは恐れから無関心を決め込んだ。
キリストの居られる所には、いつも分岐点があるのです。
博士たちは、神の言葉に聞き従い、別の道を通って帰った。
正しく道を選んだ。
私たちも、真実な礼拝を捧げキリストに出会っているなら、同じ自分で帰ることはないのです。
自分の人生を失わないために、キリストの居られる所には、新しい出発点もあるのです。


2019年12月8日

水源であるキリスト
ルカの福音書1章26〜38節

真の新しさは、無から有を造られる神にのみ属する。
自分の人生を狭い「因果関係」に閉じ込めず、新しいことを始められる創造の神の前に解放しよう。
神は何も良いことがないように見えるところに、命を与えることによって全く新しいことを始められる。
命は、あらゆる新しいことの「出発点」なのです。
そして、イエスを信じることはいつも奇跡的なのです。
その時、あなたがキリストによって「出発点」になるのです。キリストはそう教えました。


2019年12月1日

恐れないでマリヤを迎えなさい
マタイの福音書1章18〜25節

神の業が現れると世の反発や反感を引き起こす。
これがヨセフの恐れでした。それはしばしば「最悪」に見える。
しかし、大きな祝福の始まりは、しばしば人の世界の混乱でした。
その時すでに神の霊が共におられた。それは「祝福の前兆」でした。
一方、人間の正しさはしばしば更なるトラブルと悲しみを引き起こす。
ヨセフの決断は、マリヤとの離縁でした。それは、人間の正しさの限界を示している。
自分の正しさだけで考えてはいけません。
神の言葉によって、自分の周りに起こったことを理解しなければいけません。
このように、ヨセフにとってマリヤの妊娠は、神の言葉によって理解するまで、
彼の悲しみ、全く理解不能、祝福には全然見えなかったのです。
しかし、それは、驚くべき「祝福の前兆」だったのです。


2019年11月24日

好意に満ちた贈り物
コリント人への手紙第二9章1〜5節

「好意に満ちた贈り物」は、献金だけのことではありません。
私たちの交わす挨拶から始まり、態度、奉仕など全ての影響力の事です。
「好意」とは、「祝福を与える」の意味があります。
一方、「惜しむ心」とは「貪欲」を表し、欲に捕らわれた状態を指します。
神の愛以外のものによって自分の心を満たそうとする、「満たされない心」がそこにあります。
「好意に満ちた信仰生活」は必ず周りの人々に影響を与えます。
「喜んで捧げるクリスチャンの姿」こそ、この世界で最も影響力を持つものなのです。


2019年11月17日

愛を示してほしい
コリント人への手紙第二8章18〜24節

「愛と信頼の証拠」を示して欲しいと言われています。
それは、喜んで捧げることです。「証拠」が二回、「示す」が三回使われています。
言葉だけでなく、「証拠を示す事の出来る教会」になることが神の願いです。
真に愛された者は、愛することを学ぶようになります。
愛する者にとっては、「証拠」を受け取ってもらえることはこの上ない喜びです。
ちょうど、婚約者に婚約指輪を受け取ってもらえるように。それは、生きる力になります。
それは、「大人の食物」です。与えることの方がはるかに喜びが大きいのです。


2019年11月10日

テトスの熱心
コリント人への手紙第二8章16〜17節

「熱心」とは、スピーディー、後回しにしないという意味です。
無関心からは熱心は生まれない。熱心は「共にいる」ことを強く望みます。
そのように神は全く熱心そのものです。
共にいることを望まない愛は「冷たい炎」のように、何も成し遂げることは出来ません。
また、熱心は「共に仕え、奉仕する」ことを喜びとします。
また、熱心はその仕事を言われてするのではなく、自分から進んで行おうとします。
その仕事は、もはや言われてする仕事ではなく、自分の仕事だからです。
歌はそれが歌われるまで歌ではありません。
愛もそれが行動に変わるまでは愛ではありません。
愛は隔ての壁を越えて流れ出て行くのです。


2019年11月3日

隣人を自分自身のように愛する
コリント人への手紙第二8章13〜15節

「キリストの貧しさ」に預かることは、キリストに似る者となることです。
キリストは私たちが豊かな者になるために、
以前持っておられた天の栄光を捨ててしもべとなり、貧しい者となられた。
罪のない方が罪人として身代わりに死なれた。
ここに主の恵みがある。主の恵みは人の目には愚かであり、不公平に見える。
その恵みの中を生きているにも関わらず、
コリントの一部の人々は、エルサレムへの献金を不公平だとつぶやいた。
人は自分の持っているもの握り続け、固守したいのです。
しかし、キリストはご自身が神であられるのに、それを固守すべきものと思わず、貧しくなられた。
キリストの十字架は、公平でも平等でもありません。ただ、神の愛によるのです。


2019年10月27日

真実な愛の特徴
コリント人への手紙第二8章8〜12節

ザアカイがイエスを受け入れて、聖書が記する最初の大きな変化は、
自分の持っているお金の使い方に関することでした。
イエスを信じた時、彼のお金に対する考え方が全く変わりました。
ザアカイは取税人でしたから、お金に関する計算は人よりもはるかに厳格または、欲深かった。
そのザアカイが、これからは神の恵みのわざに生き、神の恵みによって生きていくことに決めました。
そして、それは難しいことではありませんでした。
彼の貯め込んだ金は一瞬で消えました。
言い伝えによると、それからザアカイはイエスの弟子として歩み、殉教したとも言われています。
このように真実の愛に生きていきたいものです。


2019年10月20日

恵みのわざに富む者となる
コリント人への手紙第二8章3〜7節

良いことを始める人は多いが、完成させる人は少ない。
イスラエル民族もエジプトの奴隷生活から解放されて約束の地
目指して出発したにも関わらず、その世代は到達出来なかった。
中断と停滞の原因は彼らの「つぶやき」だった。
400年の奴隷生活から解放された感謝は3日でつぶやきに変わってしまった。
また、途中のオアシスのあまりの居心地の良さで約束の地に向かう意欲を失ってしまった。
成し遂げるために必要なものは忍耐ですが、愛から生まれない忍耐はすぐに失われる。
愛は計算ではないし、自分の居心地の良さを求めない。愛から来る自発的な行いだけがやり遂げる。


2019年10月13日

あふれる喜びは、惜しみなく施す富となった
コリント人への手紙第二8章1〜2節

神の恵みの喜びが心に満ちていたとしても、
隣人愛として流れ出るまでは、その人の喜びは満ちあふれることはない。
神の恵みは互いの敵意を越えて、兄弟愛として流れて行くのです。
あの少年の小さな弁当が隣人愛の現れとして神の恵みに委ねられたとき、
一万人以上の人が喜んだのです。私たちの持っているものは決して小さくはない。
たとえ小さく見えるものでも、もし、家族や夫婦、教会の兄姉と分かち合うならば、
あなたの喜びは本当に満ちあふれ出るでしょう。


2019年10月6日

私は慰めを受けました
コリント人への手紙第二7章13〜16節

神から頂く贈り物の一部は、私たちの隣人が「受ける分」です。
神は彼らの分をも含めて私たちに預けているのです。
私たちが隣人を愛するために、神はあらかじめ準備したのです。
それは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
泣いていた民が「大いに喜んだ」のは、隣人と彼らが「受ける分」を分かち合った時でした。
彼らの「受ける分」を分かち合うまでは、
神の慰めを頂いた民もまだ喜びにあふれることはありませんでした。


2019年9月29日

愛から生まれる熱心
コリント人への手紙第二7章11〜12節

「弁明」は言い訳とは違う。それは、自分の罪を表現すること。
罪状書きとも違う。形だけの罪のリストではなく、ストーリーです。
どうしてそのような間違いに陥ったのか。
あの時、引き返そうとすれば引き返すことができたのに、どうして引き返さなかったのか。
などを知り、自分自身を良く知ることでもある。
特に、礼拝において、真実な礼拝を捧げなかったかを悔い改めることです。
隠された部屋の前にイエスが訪れた時に、頑固になったことを悔いることが不可欠です。
アダムもエバもダビデも、彼らがあの大きな罪をついに犯すずっと以前に
彼らは誘惑され始めていたのにも関わらず、彼らは薄々気付きながらも偽りの礼拝を捧げ続けていたのです。


2019年9月22日

実を結ぶ悲しみ
コリント人への手紙第二7章8〜10節

「後悔」は心を曇らせ、「悔い改め」は、その人を輝かせます。
キリストの十字架の赦しは完全だからです。
ペテロもパウロも大きな罪を犯しましたが、
悔い改めて赦され、今やキリストの光を輝き出しています。
過去の罪も失敗でも、全く新しい光を輝かせることもあるのです。
神の御心に添うなら、悲しみは私の心の内にあるキリストの光と愛を明らかにしてゆく養育係なのです。


2019年9月15日

気落ちした者を慰めて下さる神
コリント人への手紙第二7章5〜7節

慰めを必要とする人に、慰めを与えることが上手な人は、神からたくさんの慰めを頂いてきた人です。
与えることが上手な人は、受け取ることが上手な人だけです。
神から恵みを受け取ることが上手な人は、与えることも大変上手です。
神は求める人には、豊かに恵みを与えて下さいます。
だから、たとえあなたがとても弱い人であっても、
受け取ることが上手になるなら、祝福の器として大きく用いられます。
そして、たくさんの人を「広い所」へと導いていくでしょう。


2019年9月8日

心を閉ざした人々への信頼と愛
コリント人への手紙第二7章2〜4節

心の中には、「閉ざされた部屋」があります。
その部屋には、鍵がかかっていて、その部屋には「隠し事」がたくさん押し込められています。
それは、怒りや憎しみだったりします。その部屋は、家を陰気にして暗くしています。
しかし、他の部屋は大変きれいにしてあります。
イエスは、その家の主ですが、家人が部屋に鍵をかけているので、入ることができません。
その部屋は真実な礼拝の妨げになっています。
イエスは責めるためにその部屋に入ろうとしているのではありません。
むしろ、そのゴミを引き受けようとしています。
それが隠れた罪であるなら、それよりも主の愛で家を満たそうとしています。
主があなたの家を訪れたのは、
あなたを広い所に連れ出し、家を光で満ちあふれるようにするためなのです。


2019年9月1日

愛する者たちへのメッセージ
コリント人への手紙第二7章1節

「聖さ」とは、分離を意味する言葉です。
分離とは、心の衛生管理です。賢い人は、汚れから遠ざかります。
また、「集中する」ことを意味します。脇見運転は、事故のもとです。
これらのことが分かっていても失敗するのが人間です。
この2つ「衛生管理と集中」の背後には「自制」が必要です。
自制が出来ない人は、何事も成し遂げられません。
常に誘惑があり、攻撃にさらされているからです。
しかし、この自制は、愛が分かるなら、いとも自然に、
当たり前のように自分の心の中を治めるのです。
愛が分かるなら、運転に集中し、
また、家族が衛生的な生活ができるように汚れを家の中から「分離」するはずです。
「この世と調子を合わせ」ずに、愛を追い求めましょう。


2019年8月25日

つり合わないくびき
コリント人への手紙第二6章14〜18節

「くびき」とは、「2つのものを一つに結び付ける道具」です。
もし、愛によって結び付けられたなら、
そのくびきは窮屈を全く感じないばかりか、大きな喜びです。
世からの分離は、キリストと一つに結びつくことの結果であり、全く窮屈ではないのです。
くびきを負って歩くには、多少の技術を学ぶ必要があります。
それを習得したなら、その人の歩みは軽くなり、
成し遂げる仕事ははるかに大きくなり、豊かな収穫を得ることができるのです。
狭い門から入りなさい。


2019年8月18日

心を広くしなさい
コリント人への手紙第二6章11〜13節

人生の行き詰まりは、新しい世界観の必要をその人に気付かせる。
それは、報酬の世界ではなく、神の恵みと愛の世界観です。
羊たちの自由と幸せは、彼らが羊飼いについていく時にのみ保証される。
それを窮屈と感じる者がいるとすれば、その人は甚だしい無知と言われても仕方がない。
その人は自分で自分を窮屈にしているのです。
空を自由に飛んでいる小鳥も好きかってに生きてはいません。
自然法則に従っています。
また、どんな仕事もスポーツでも、熟練への道はいつも大変狭い。
それから、大きな自由がやって来る。
もし、自分の人生をより素晴らしいものとしたければ、イエスのくびきを負ってイエスから学ぶ必要がある。
それを窮屈と感じる人には、いつまでも自由はやってこない。
しかし、もしへりくだって学ぶなら、やがて自分の人生にたくさんの平安の実を実らせ、
あなたの回りにはいつも賛美と喜びの声が絶えないようになる。


2019年8月11日

悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる
コリント人への手紙第二6章5〜10節

現代の孤独は陽気な顔をしている。八方美人だが、本当の友達は少ない。
外形はきらびやかに着飾っているが、内側は寂しさで一杯です。
一方、パウロは「悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる」と証しする。
彼の生き様は、どんな権力者よりも世界と歴史を変えた。
そして、今も続いている。
イエスは、「私たちの見とれるような姿もない」方だったが、
今も彼のわざは続いていて、世界中のどこでも彼を愛する弟子たちと会うことができる。


2019年8月4日

神の恵みに答える
コリント人への手紙第二6章1〜4節

試練の朝に「今日は恵みの日」と言える。
神は私の悩みを聞き入れて下さるから。
患難を通過している私に、神はいつも神の愛を注いで私を支えて下さるから。
そして、こう言って下さる。「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と。
私の心はしばしば恐れて反応するが、私の心の中の神のことばは私に勇気を与える。
苦しみの溢れるところには、慰めも溢れるから。


2019年7月28日

私の価値、私の代価
コリント人への手紙第二5章21節

イエスは悪の策略について無知な方ではなかった。
蛇の策略をよく知っていた。誘惑には会われたが罪を犯すことはありませんでした。
悪の策略を見破るために、少しの悪なら体験した方が賢くなるというのは世間の軽口である。
エバはその誘惑に引っ掛かり抜けられなくなりました。
知恵を期待したが、そこに見たのは自分の恥でした。
「蛇のようにさとく」とは悪の策略に無知であってはならないという意味です。
神の与える知恵は第一に、「純真」です。これは、子どもっぽいという意味ではない。
人の心と思いや悪の謀りごとを見分ける御霊の剣なのです。


2019年7月21日

神の側が懇願している和解
コリント人への手紙第二5章20節

和解のない所に、私たちの幸せもありません。
「異なったものを一つに結びつける」のは福音の大きな働きです。
私は決して人を赦さず、和解をしない人の悲惨な人生を知っています。
和解の秘訣は、「神が私を愛していることから決して目を離さない」ことです。
神は和解をしようと歩み出した人をご覧になり、「健全な自尊心と愛されている確信」
などのすべての必要を与えて支え続けて下さるのです。


2019年7月14日

敵対していた相手に委ねられた和解の務め
コリント人への手紙第二5章18〜19節

新しい世界が拡がることを期待したエバが、そこに見たのは自分の恥だった。
もし、キリストによって新しくされないなら、新しい心が与えられないなら、
どんなものも新しい世界をその人に与えはしない。
どんな美しい果実も一年以内には、新しい経験ではなくなる。
そのようなものを追いかける人は自分の恥を見る。
しかし、いつまでも変わらない新しさというものがある。
この世界の因果関係から解放された力と命をキリストのわざの内に見るなら、
その人の毎日は、冒険的で魅力的なものになるでしょう。


2019年7月7日

新しい創造を生きる
コリント人への手紙第二5章17節

キリストの内にある者は、日々、新しい創造によって生きる。
人間的な見方と理解しか出来ない人は、いつも問題しか見えない。
そして教会や家族の間にも分裂と争いを招く。
しかし、キリストの光によって互いを見るなら、
神は新しい創造の力と命によって、その人の内に、新しい心を造って下さる。
何故、神はエデンの園に悪魔を置いたのか。
その理由は、人間がこの恵みを経験して神を誉めたたえるためである。


2019年6月30日

見よ。すべてが新しくなった
コリント人への手紙第二5章16〜17節

うわべで判断する人がいるから、うわべを飾る人がいる。
だから、この世の虚栄とうわべはまさに商売になる。
そのような生き方の終わりは孤独であって、幸せな家族でも夫婦でもない。
人の視線を食べて生きる世代。華やかなのに、孤独な人々。自分の本当の顔を隠している。
しかし、イエスは野のゆりの美しさに驚いた。
明日は炉に投げ込まれる花さえ神はこのように装おってくださる。
光の天使にだまされてはいけない。
人はうわべを見るが、神はその人の心を見ているから。


2019年6月23日

愛が強く迫って来る生き方
コリント人への手紙第二5章11〜15節

マザーテレサの言葉から。
「日本人はインドのことよりも、日本の中で貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。
愛はまず身近かなところから始まります。」
「世界平和のために何ができるかですって?家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい。」
「自分の家の玄関先を掃除するだけで、全世界はきれいに。」


2019年6月16日

天に目を向けた者の心強さ
コリント人への手紙第二5章6〜10節

苦しみの中から天に目を向けた者は強い。
その人は絶えず神の愛の供給を心に受けているから。
聖霊はイエスと共に天にいると同じ喜びと平安をその人に保証している。
だから、その人はどんな境遇においても勇気を失わない。
また、豊かに実を結ぶのです。


2019年6月9日

自分の足を見出だした男
使徒の働き3章1〜12節

生まれつき足の不自由なこの男は、この時初めて立ち上がり、はねたりして歩きだした。
この男は生まれて初めて「足」というものを見出だした。
このように、私たちはイエスを知るまで「本当の自分の姿」を見出だしてはいません。
私たちはみな、キリストの心と光で自分自身の姿を新しく創造的に見出だす必要があるのです。
自分には何もできないと思い込んでいるかもしれません。
しかし、その人はまだまだキリストにある素晴らしい将来と神の恵みを知ってはいないのです。


2019年6月2日

私の証人
使徒の働き1章3〜8節

使徒たちはイエスから直接教えられキリストの復活の姿を目撃したにも関わらず、まだ力も情熱もなかった。
これらは聖霊によって与えられるものだからです。
まだ彼らの福音は力がなく、様々な隔ての壁を越えていく愛の情熱もなかった。
しかし、聖霊に満たされた時、「偏見と隔ての壁は愛する機会」に変わった。
福音は異なった二つのものを一つにする。
このように、聖霊の愛は臆病者を勇士に変えるのです。


2019年5月26日

あなたはすべてを知っておられます
ヨハネの福音書21章17〜23節

自分の失敗を隠したり、失敗を恐れている者は決して指導者にはなれません。
失敗は非常に良く人を養うことができるからです。
自分の成功談や能力を分かち合うには愛は必要ではありません。
しかし、自分の失敗を互いに分かち合うには、大きな愛が必要です。
イエスはペテロの失敗を分かち合おうとしました。
しかし、ペテロは心を痛めました。イエスの心を知らなかったからです。
イエスはすべての問題の解決を「あなたは私を愛しますか」という言葉に集約して質問しました。
イエスを真実に愛することの中にあらゆる問題の解決があるのです。


2019年5月5日

自分の信仰に失望した時
ヨハネの福音書21章1〜14節

自分の信仰の自信をすべて失ってしまったら、何が残るだろうか。
ペテロはキリストの弟子としても、プロの漁師としても失敗して自信を失った。
そんな時、イエスが用意して待っていたのは、
疲れた弟子たちをもてなす温かい食事だった。説教はなかった。
ペテロのキリストに対する熱心は変わらなかった。
失敗し砕かれた者へのイエスの愛と温かいもてなしも変わらない。
イエスは落胆した弟子たちにしもべのように仕えました。
だからこそ、イエスは私たち「人間」にとっての「喜びと慰めの泉」であり続けることができるのである


2019年4月28日

愚かな人たち
ルカの福音書24章13〜34節

みことばを忘れると周囲の状況は混乱にしか見えない。
十字架は神の愛のご計画だったが、みことばを忘れた弟子の目には混乱と全ての終わりにしか見えなかった。
イエスは近づいてきてその弟子たちを「愚かな人々」と呼んだ。
みことばを信じない者はイエスが隣りを一緒に歩いていても気が付かない。
おなじように、「愚かな人々」とは、今いかに自分が幸せであるかに気付かない人のことです。


2019年4月21日

生きている方を捜しなさい
ルカの福音書24章1〜12節

私たちはいつのまにか、慣れ親しんだ場所へ行くものです。
あの奇跡的な全く新しい朝を迎えたはずの女たちは、
しかし、奇跡のいのちの中を生きてはいなかった。
なんとキリストの墓へ向かった。
誠実で献身的でまったくの善意からではあったが、そこにはキリストはいなかった。
私たちは無意識からほとんど行動している。
しかし、そのような行動はしばしば的はずれであり、最善でないことがある。
御使いは「語られたことばを思い出しなさい」と彼らを叱責した。
イエスはガリラヤで彼らの傷ついた心をいやし、
愛によって関係を回復しようとされていたのです。


2019年4月14日

どうして私をお見捨てになったのですか
マタイの福音書27章38〜46節

キリストが十字架の上で神から見捨てられたので、
私たちは決して見捨てられることはない。
なのに、人はなぜ早々と自分や隣人を見捨てることか。
それは、人はしばしば神の心を見失っているからです。
見捨てたのは短気を起こした自分に過ぎないのです。
神は「大きなあわれみをもって再びあなたを集める」のです。
神は見捨てないからこそ、人の悔い改めも有効なのです。
今日も罪に満ちている人を見て神は言われるのです。
「どうしてあなたを見捨てることが出来ようか」ホセア11:8


2019年4月7日

苦難の中を歩む人を支える確かなもの
コリント人への手紙第二 5章1〜6節

神を愛する者の悩みのうめきはローマ8章26節によれば、御霊のとりなしの祈りの現れです。
御霊のとりなしには一つの目的地がある。
それは「すべてが益となる」ことです。
そこへの道筋には様々な妨害と攻撃が待っているが、
どんな攻撃も私たちを神の愛から引き離すことはできないのである。
私が強いからではなく、神の愛の手がしっかりと私をつかんで下さっているからです。
そのように、「圧倒的な勝利者」とは、自分が強い者のことではなく、
御霊がともにうめいて下さっている人のことなのです。


2019年3月31日

主を喜ぶことはあなたがたの力です
ネヘミヤ書8章9〜12節

喜びが満ちあふれるためには、みことばの理解だけでは不足です。
隣人の喜びに仕える喜び、自分の喜びを分かち合うことが必要です。
そうすることにより、教会でも家庭でも喜びが満ちあふれるようになります。
多くのクリスチャンは自分の喜びのために教会に来ます。
しかし、そのような人よりも喜びに満ちあふれているのは、隣人の喜びのために、
喜びを携えて教会に来るクリスチャンの人々です。
カナの婚礼の宴会の客よりも水くみのしもべの方が豊かに恵まれました。
エルサレムの人々はみことばの解き明かしを聞いた時にはまだ泣いているだけでした。
しかし、互いの喜びに仕えることを理解したとき、エルサレム全体が「大いに喜んだ」のです。
「他の人の喜びに仕える喜び」が1個人の喜びを何倍にも増加させるのです。
このような教会の愛の力を主は喜ばれるのです。


2019年3月24日

怒りは多くのチャンスを台なしにする
エペソ人への手紙 4章26〜27節

怒りは多くのチャンスを台無しにする。
たとえ悪い裁判官であっても、
その人の良心を信じて腹を立てずに求め続けたあのやもめは求めたものを手にすることができた。
しばしば人間の怒りは交わりを破壊して多くのものを失ってしまう。
怒りは相手の人の心も閉ざしてしまう。
この世の挑発に乗ってチャンスを台無しにしてはいけない。
代償は大きい。欲しいのは、怒りの発散か、それとも求めている果実か、はっきりさせなければならない。
私たちがここにいるのは怒ったりのろったりするためではない。
自分の怒りを治めてその相手を祝福することを学びなさい。
そのために喜んで訓練を受けなさい。そうすればあなたは本物の勇士になれる。
柔和な者が結局、最後にはこの地を受け継ぐことになるのだから。


2019年3月10日

私は悩んだ。そして、信じた。
コリント人への手紙第二 4章13〜15節

悩みが信仰を生み出すことはない。
悩みと信仰は全く別の世界の出来事です。
悩みは人間の理解の産物であり、信仰はキリストのことばに耳を傾けることから始まる。
しかし、悩み自体は罪ではない。悩み続けることは罪である。
いつか、どこかの時点で信じなければならない。
キリストのことばによって。「私は大いに悩んだ。そして、信じた。」のです。
サタンは「いつも悩んでいなさい」と言う。
なぜ、ある人々はそちらの方の言葉を信じてしまうのか。
信じることによってキリストに結び付けられる。
その人はキリストと共に復活のいのちに預かるのである。


2019年3月3日

自分の無力を思い知らされた時
コリント人への手紙第二 4章8〜12節

この場合、死とは「宣教者の尊い献身」を意味する。
イエスの死がイエスの復活に先立ったように、宣教の愚かさは神の恵みの大きな収穫に先立つ。
宣教者の涙と叫びは大きな収穫と喜びに先立つ。
神はご自身の栄光を人のものとはされない。
宣教者の尊い献身と宣教のことばの愚かさを通して福音は広がっていく。
宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとされたのは神の知恵である。
神の愚かさは人よりも賢い。誰がこの愚かさを引き受けてくれるだろうか。
神の愚かさを身に着た宣教者を神は求めている。


2019年2月24日

孤独な群集
ローマ人への手紙12章2節

「何が良いことか」この時代の流れの基準では「周りの人に受け入れられること」である。
周りの人が自分をどう見ているかを気にするために自立性が失われて
「漠然とした不安感と寂しさ」がいつも付きまとう。
とりあえずの話し相手はいるが本音でぶつかり合って互いに理解しあうことは避けて生きている。
疎外されることは一番怖い。「誰かに繋がっていたい」という願いは逆に自分を縛ってしまった。
結局これらは「自己愛」なので「その人そのもの」に関心を持つことは少なくなる。
私たちは一体、周りの人とどのような関係を築き上げたいのか。
それを決めるのはこの時代や周りの人ではない。
その答えは「キリストとの結び付き」と、キリストの体である「教会」の中にあります。


2019年2月17日

やみの中から輝き出よ
コリント人への手紙第二 4章3〜6節

都会に満ちる闇とは孤独である。
孤独は山の上にあるのではなく、町の中にある。
そして、現代の孤独はみな「陽気でにぎやかな顔」をしている。
現代社会のあらゆる問題は、神から離れた人々の深い孤独感から生じている。
人々はグループを作りだし、ルールを作り上げる。
見事なバベルの塔。栄光の衣を失った人間は自分のありのままの姿を見て恥ずかしくなった。
誰でも自分を恥ずかしいと思った時から孤独になる。
自分で作り出した衣は彼らの孤独をいやすことはできなかった。
失われた栄光の衣はどこにあるのか。キリストの義の衣。神の愛のおおい。
この世界が与えることのできないもの。ここに帰るまでは私たちの心は決して満足しない。


2019年2月10日

尽きることのない神のあわれみ
コリント人への手紙第二 4章1〜2節

神の恵みは誰にも平等であるが、神のあわれみは正しい人よりも、罪人や悪人に対してもっと深い。
静かに見えるが心の奥底にある激しい愛情。
その激しい情愛が罪人を神の前に立ち返らせる。あわれみは赦し以上です。
赦しと忍耐と悲しみさえ含まれるのです。
あわれみによる関係は背信や裏切りなど、全くふさわしくないにも関わらず保たれます。
そのあわれみは人となられた。その方がキリストです。
神のあわれみはキリストの贖いの十字架の死に最も明らかに示されている。
そして、神のあわれみは静かなものではない、神のあわれみは今、沸き立っているのです。


2019年2月3日

栄光から栄光へと変えられる
コリント人への手紙第二 3章17〜18節

「私は既に救われているから、このままでいい」「何のために成長する必要があるのか?」
赤ちゃんは生まれただけでは育たないのです。
暖かい家庭や家族が必要です。それは教会です。
そのために私たちはみな「愛において成長する」必要があるのです。
その人の成長は必ず「愛にあふれる教会」を形成し、建て上げるに至るはずなのです。
そして、教会に注がれる神の愛は、その教会に所属する家族を始め、
様々な人間関係と交わりを祝福してゆきます。
だから、クリスチャン一人の救いと成長は個人的なものではありえない。
個人的に救いが与えられたのは、全世界に救いが広がるためです。
あなたの救いを通して、神は全世界を見ているのです。


2019年1月27日

キリストの光の中を歩む
コリント人への手紙第二 3章13〜15節

キリストの素晴らしさは自然とその人を清い生活へと導く。
禁止と強制によってではなく、キリストを愛することが献身と礼拝へと自然に導くのである。
「心が鈍くなる」とは、愛において鈍感になることであり、
その人は何をして良いか分からなくなるので、
愛からくる自発的行動ではなく、指示待ち人間、すなわち奴隷になってしまう。
愛がないと闇の中を歩いているようです。
キリストを愛する人は、あらゆる良い行いが愛から湧き出る豊かな泉のように、
喜びと新しい賛美を伴って流れ出てくる。
キリストの素晴らしさを知ることは本当にクリスチャン生活のすべてです。
決して自分を罪に定めたり、裁いてはいけません。


2019年1月20日

すぐれた栄光のゆえの大胆さ
コリント人への手紙第二 3章6〜12節

この世界は私たちの解放のミニストリーを待っている。
御霊の原理は人間の運命的な縛りからその人を解放する。
あきらめと死の世界に住む人々を閉じ込めている壁を打ち破るのは私たちの側である。
それができるのである。火薬の力によってではなく、神のしもべたちに与えられている聖霊の力によってである。
その力は「デュナミス」(ダイナマイト)と呼ばれる。
神の国はこの世から奪いとるものなのです。あの男のように38年も待っていてはいけません。


2019年1月13日

神から与えられた資格
コリント人への手紙第二 3章1〜5節

「人からの推薦状が欲しいですか」とパウロは尋ねている。
自分の資格の証明を求める人々にそれを明確に拒否している。
パウロ自身が証明すべきことではなく、あなたがた自身が自分の信仰を確かにすることによって判断しなさいと。
資格は自分自身に対する確信ではなく、神に対する確信だからです。
誰でも自分そのものには確信はない。
ただ、神との関係において、神の愛において自分の尊い価値を確信するのです。
自分の価値と資格は人からの評価ではなく、「私を創造した神」の心の中にあるからです。
私たちにはそれを時々読む心の必要があります。
私のための神の推薦状は、私自身の心に書かれているので自分で読むことができます。
何と書いてあるでしょうか。それはこれです。「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。」


2019年1月6日

キリストの香り
コリント人への手紙第二 2章12〜17節

「しかし、感謝します」と言うとき、私たちはいつも何かの「壁」を打ち破っているのです。
あなたはそのために、そんなに居心地の悪いところや状況に置かれているのです。
たくさんの人々は、実はその言葉を聞きたいと思っているのです。
私たちはキリストのみ業によって、そのような確かな見通しを持てるわずかな人なのです。
「純粋さ」とは、ありそうもない状況の中で「しかし、感謝します。」と神に信仰を言い表すことなのです。
そのとき、その人は「キリストの香り」であり、勝利であり、凱旋の行進を不信仰な人々の間でしているのです。
そのとき、キリストの香りはその家の中に満ちあふれるのです。


2019年1月1日

元旦礼拝
ヨハネの福音書1章5節

光が輝けば世界は広がるのです。
光があったあと初めて地上の生物はいのちを与えられ自分の場所を見出だしました。
更に自分の壁を越えて増え広がり始めました。
光はやみを打ち破り、盲人は歩き出し、
サマリヤの女は自分の尊さを知って多くの人々を見出だしました。
この世は、罪は自分の世界を広げると信じている。
しかし、その結果は束縛とやみ。人間の理性の光はとおの昔に行き詰ってしまった。
神の光の知識は宗教的な人を恵みの中に自由にする。
何が真に新しい世界を私たちに見せることができるのか。
誰が死の力を打ち破ったか。誰が罪の力を打ち砕いたのか。
あなたの心の目がはっきり見えるなら、
目の前に大きく広がるあなたが勝ち取ることのできる地を見るだろう。
そして、あなたはそのようなものであることを知るだろう。


2018年分